お茶処 di Ubud = 11軒目 / 白鷺の村とむかし行ったレストラン。
Ubudっていうのはおおきく見ると町よりも随分高いところに田圃がひろがっていて、村全体の片側はそれにすっぽり包まれるようになっている。
気付きにくいけれどやっぱり山あいの村ではある。
車の通れぬささやかな山道が町なかから幾本かある、ずうっと登ってゆくと突然一面に田圃がひろがっていて目を奪われる。
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そういう道へとつながる石畳の細い道にロウ.バジェット.ツーリスト向けのレストランがあった。
そこへ足繁く通っていたのはもう7年も8年も前のこと、そしてそのお店はいまも変わらずそこにある。
BalinaLagoonRestaurantという名前だったけれど、看板を見るとLagoonの文字が消えている、いまはバリナ.レストランと言うのかも知れない。
ふた月くらい前のある晩、そのレストランを通り過ぎてずうっと登った田圃の奥の奥、そういうお家でのジャム.セッションに誘われていた。
ところでその日はPetulu村という白鷺の村へ写真を撮りに行っていた。
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ここには白鷺(チュウサギという種類だそう、公称数千だの数万羽、でも地元のひとに訪ねたら「たくさん」という答が、、)が棲息していて、この村に保護されている。
で、どういう様子なのかちょっと見て来て欲しいという、千葉県の海沿いで鷺の保護活動をしている友人から依頼があって。
ぼくはこの村へ行くのは初めてで、夕方はきっと鷺の乱舞がすごい、というイメージを勝手に抱いていたので良さそうな時間に息子をバイクの前に乗せて出かけてみた。
今日は幼稚園がハネたあと、夜遅くまでふたり。
Petulu村はUbudからバイクで20分ほどのさして遠くはない村なのだけれど、時間帯のせいもあってメインロードから村へ曲がるポイントを見逃してしまい、かなり遠くまで行ってしまった。
この時間帯はどうにも距離感が狂う、だから行けども行けども見つからないのに、どんどん先に行ってしまう。
走りながら虫捕り網と虫カゴ(売っていない)は一体何処で買えるのだろうかなどを話し合ったりしていたせいも少しある。
で、とっぷり陽も暮れて、ついにその日は見つからずへとへとになって帰って来た。
急いで楽器の用意をしてまたすぐに家を出たのだけれど、その日はそんなのでもう疲れていたし、楽器の沢山詰まった大きなバッグでバイクの二人乗りで、ささやかなとは言え山道だし、ちょっとそれはしんどいなと思った。バイクを降りた後の田圃の畦道も結構あるし。
、、それじゃあさ、なにか美味しいものでも食べて元気になってから行こうか、と話が纏まった。
そしてふいと、このレストランを憶い出した。
通り道っていうのもあったけれど、まさにここに足繁く通っていた頃は今晩みたいなセッションがあちこちであったんだよ。
ぼくがいまこうなっているのは、そういう時代をUbudで過ごして来ているから。
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ほとんど変わっていなかった。
ゆるい登りになっている道に沿って、石畳の道をやや下に見下ろすような感じで細長く建っている。
ぼくが何故この店が好きだったかと言うと、夜はお店の中は薄暗いのだけれど、暖かい光がそれぞれのテーブルに集まってくるようなね、手作りの素朴な卓上ランプがある。
ローソクでも灯油でもなく、ちゃちな電気のランプだけれど、これがすごく良い。
その光のなかでは10年20年などあってないようなもの。
自分の知っているBaliがそのなかにみんなある気がする、時間が見る間に集まってきて光のなかを飛び回る。
そういうのが、それぞれのテーブルごとが、世界。
プライヴェート感が濃い。ほとんどのテーブルがふたり掛け。でも偶然店が細長いからそうなのだろうと思うと気持ちがいい。
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今晩は息子が反対側に座っている。
椅子が低いので頭しか見えていない。
ぼくは昔はなかったと思う椰子酒の素朴なカクテルを飲みながら、サテ.アヤムを齧っているその頭を見ている。
勿論息子のことはだいすきだけれど、その晩はそんな光のなかでなんだかいつもよりもっともっとその頭が愛しかった。
巡り合わせの不思議さや絶対さを思っていた。
ぼくは1年ほど前に一度すっかり毀れてしまった音楽や音楽家である自分の瓦礫のなかから、まだちゃんと立ち上がれてはいなかった。
立ち上がりかけては毀れ、ぽろぽろと剥がれ落っこちてゆくカケラ見て無力感に苛まれていた。
朝目が覚めてしまった、、そのことだけで冷や汗が流れる。今日過ごさねばならぬいちにちを思って冷や汗が流れる、、そういう続いて来た1年間の日々のまた今日も続きなのだ、という。
それですべてがOKになる訳ではないし、実際にそうなのだけれど、でもそこから抜けるチャンスがこの晩のなかにひそんでいた。
いまそう考える。
幸せな気持ちをそのまま持って行った。恐らくは無意識にでも必死でそれ以外の感覚を閉じたのだろうと思う。必死でその晩は手放さずにいたのだろうと思う。
その気持ちのまんまで音を出す。
ふいと目をあげると、この家の子供と遊んでいる息子が見える。そしてぼくはぼくの出している音がすきだった。そして音楽がとてもすきだった。
とても単純で簡単なことなのに、忘れて一度手放すとなかなか戻って来ないもの。
思い出し、さらにそれを更新する感覚。
巡り合わせの不思議さ、偶然、そして絶対さ。
思い出したかったことが思い出せたこと。そしてそれらすべてが無意識上でなされなければならない訳で、でもそう出来たこと。
点は繋がり線になり、線は出会って面になり、面は立ち上がり、そして、、。
実はあの晩から今日までこのレストランには来ていない。いつまたここに来るのかはわからない。
その癖、もしなくなってしまったらきっとすごく悲しい気持ちがするだろうと思う。大事に思っている。
いまはこの道にもレストランや宿も随分増えた。
昔は道の入り口付近に2軒、あとはここくらいだったと思う。夜、狭い石畳の道をバイクでゆっくり登って来ると、暖かい灯りが見えてきた。
その佇まいがすきだったし、その中へ入ってゆけることが嬉しかった。
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あ、白鷺の村は翌日昼間のうちに見つけておいて、夕方もう一度撮影に行きました。今度は独りで。
動物の写真は難しい、しかも相手は鳥なわけで、あっと思った時にはもう飛んで行ってしまう、そしてポイントの何も無い無意味そうな写真だけが寂しく残る、デジカメだから何度も確認しながら撮り直し出来るけれど、フィルムの写真機だったらとうてい素人には無理だなと思った。


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