Ubud百景=その十六景 / 御近所のカミサマ。

時間はずしたお昼寝などうっかりしてしまうと夕方寒くて目が覚めるタイルのうえ。そろそろ夜は薄手のセーター着てもいいくらい。
タンクトップで過ごした昼間の肌の上にふわりと被る、剥き出しの肩や腕に薄手の毛糸地が心地よい。
ぴりっと暑い日中は、でも風涼しく爽やかで汗はかかない。だからタンク.トップが気持ち良い。
雨季の汗まみれの身体にタンク.トップは嫌なので着ない。
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前回の百景が「島の雨季が明ける」だったからやはりここは「迎乾」とか「ドライシーズン.ハズ.カム」とかなのだろうか。
ともかくも乾季はぴたりと安定し、洗濯物も太鼓の皮もさらさらに乾いていて肌触りが良い。
パソコンのキィボードのタッチも心なし軽い、ってのは気分でそう言っているだけにせよ、身体と空気大気との摩擦係数が下がっているため動きやすい、、ような気がする、とでも申しましょうか。
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空気とそのような関係を持ちつつ滑るように泳ぐように、端から見ればふらふらと、散歩に出れる昼日中。
しかしつくづくと、、
自分の住んでいる村をひと巡りしただけでこんなに収穫がある、つくづくとバリならでは、、と思う。
こういう豊かさってある。
子供ではない、いいオトナがこういうものを造って道端に置きたがる。
もちろんどれも神様モノではある、そういう大義名分に隠れてこっそりと楽しんでいそうでとても羨ましい。
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道端の、言わば下っ端のカミサマたちのこの顔たちの御近所ぶりはどうだ、と思う。
シニカルや素っ恍けに、ただひたすらに可愛いヤツらとか。
しかし雨季のあの激しいスコールのなかでも、時には道を流れる濁流に棒立ちて、こいつらはここにいるんだよな、と思うと健気。
笠地蔵、、いや傘地蔵なんて連想する。
しかし日本のカミサマはどれも穏やかたおやか、水のように静か、悟りの入った成就した貌、若しくは憤怒の形相。それともさり気なくモノに宿っていたりとか、、
自分の育った町では少し高いところにそうやってみんな居た。
だから子供の目線の一番近くに居たカミサマはお地蔵様で、触ることも出来た道端のカミサマ。
子供にとっては、触れる(さわれる)か触れないかで大分親密度が違う。こういう感じが一緒だなと思う。

ところで自分には日本の路上観察学だのトマソンだのの「あの感覚」で開かされた目がある、自然とそれ使ったものの見方になっているのかも知れない。
もちろんこっちにはあの感覚はない、でもその目でこの感覚を捕まえているのかも知れない。いや、目に入って来た情報の処理に「あの感覚」が使われている、のか。
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昔、まだ20代だった頃、ここは旨そうだなというちょっとした勘が働いて、横浜中華街の細い路地の奥にある小さな中華料理店に入った。
そうしたら、その赤瀬川源平さんが数人の連れのひとたちとご飯を食べていた。
つまり「あの感覚」を開いたそのひと。開祖、というか。
低くて良く響く声が聴こえて来て緊張した。
鞄のなかには当時の彼の新刊本もペンも入っていて、それにサインして欲しかった、サインをお願いする条件が揃っていると思った。
けれどそう思うとさらに緊張してしまい、なにか頼んで食べたのだろうけれどそれは意識の外での出来事なので味の記憶にはならなかった。
食事を終えた一行がレジのところに一時留まっていたのに「さあ、いまだ」「いくのだ勇気を出して」といよいよ身の裡で葛藤があって、、でもいけなかった。
当時の日本の、感覚の、まさに最先端にいたひとだったので、どうしても固まってしまう。

サインをねだるなんてハシタないこと、、という態度で後日友人達に自慢したのは言うまでもない。20代なぞそんなもの。
硬いしわしわの、桃の種みたいに詰まらない、ちっぽけな自我を大事に持ち歩いていた頃。
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ところでこの写真は説明を要すると思う、左上と右下。
一見、男根崇拝のアレ、と思われがちだけど違います。
樹の幹を刳り抜いてスリットが入っている。
日本で言ったら、もうないかも知れないけれど半鐘みたいなもの。
火事や事件が起こると町内のこれが鳴らされる、勝手に鳴らされないように随分高いところに設置されていた鐘。
かなり小さい頃の記憶にある、それが鳴らされているときのタダナラヌ緊迫した空気。状況の緊迫度によって鳴らされ方が違う。
町内の火事では狂ったように鳴らされていたし、近くのなら早く、遠くの火事ならのんびりと鳴らされていた、、という、あれです。
こっちのこれはクルクルと呼ばれていて、やはりそのように使う。
村の青年団の緊急召集とか、そういう類いの合図もあって割と日常的にその音はしている。
なかなか良い音で、良く乾いた感じの樹のヌケのいい中高音、遠くまで良く響く。
夜中にこれが早いピッチで間断なく鳴っていると、これは村内の大事件。泥棒騒ぎなんかでね、やはり緊張する。

機械で増幅したり信号に変換〜還元したりしない生の音の、直接空気振動による情報伝達がまだ生きている。
そして警報を発するのは機械ではなくてひと、リアルだし速効性が高い、機転がきく、柔軟性も対応性もある。
それ故に得られる安心感というものも、そういえばあったんだ。

はぁ、ひととひとの会話と同じことってわけですね。

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Ubud百景=その十五景 / 島の雨季が明ける。

最後の名残りの雨がまだ時折落ちては来るけれど、漸く島の雨季が明けようとしている。
これで南半球は、この熱帯は、秋から冬へと向かうわけでその兆しは少しづつやって来ていた。
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皮膚や粘膜で感じる、云ってしまえばそれは空気感とか大気感ともさ、でもそれだけではなくて、たとえば中庭に溜まるブーゲンビリアの落ち葉の嵩が増してきて、日に何度も落ち葉掃きをすることだったりもする。
スーパーの大袋が4〜5日で一杯になってしまう。
ところでこの落ち葉、一見赤い花のように見えるのだけれど、その部分は葉っぱで良く見ると葉脈もある。
で、内に小さな花がある。
こっちでは「紙の花」と呼ばれるのは、葉っぱの部分は落ちたあと乾いてぱりぱりの紙のようになるから。
なので手漉きの紙に漉きこんだりするとなかなか良い風合いが出る。
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毎日空の様子を見て暮らしているわけではないけれど、なにかのはずみにふいと、あぁ空が広いな、と思う。
雨季は雲で空が塞がって狭く見えていたからとかそういうことではなくて、でも違う。
雨季の晴天の空は近くにあって、でも恐いくらい深い、乾季のそれは遠く遥かに広い広い、、そういう感じ。
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大気中の水分の含有量、という方向で考えてもそれはそれで詰まらなくもなくて、水の滴る惑星のイメージがなかなかいいと思う。
剥いたばかりの水気の多い果実、、そういえば昔は果物のことを水菓子と云ったらしいね。

日射しのなか柔らかく落ちてくる清涼なイメージの水、お天気雨も乾季ならではで、そんなのがふた朝も続いた。
これは水。そして水は水。これも水。
しかし惑星と水とは地震と津波でもあった。
数十万の命を一瞬で奪って行った水。
そしてじわじわと二次災害の伝染病の媒介をした水もあった。
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水の司る生き物の命運、ということが割と身近なところで感ぜられる場所かも知れない、ここは。
雨の降らない乾季に井戸が涸れてしまって不自由した年もあった。
世界中のどんなところでも、そういう感覚が生活からなくなる日がいつかやって来るのかも知れない、その時こそが、、

日本の神社に滴る水もスマトラの津波の水も、成分は違えど同じ水。
どんな信仰にもあるだろう聖なる水、聖水だって。

あぁ、また水のことだ、、何時まで水に囚われていなくてはならないのか、と思わないでもないけれど自分は大部分が水の「ひと」であるので別にそれでもいいのか、とも思う。
太古の海、渾沌という水から這い上がってやって来たのだから。
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もしも地球が終わりになるのならば、すべてのものが一瞬で水に流されて、水洗便所のごとく平等に、すぱっと御破算になればいい。
水と惑星の意趣返しなのだろうと思う。
本当の水の惑星に戻る日。

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Ubud百景 = 其の十四景 / お祭りの島2。

* 3/11 NYEPI
さてBali暦新年です。
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今日は外出してはいけない日。まぁ、庭くらいなら、、でも公道は禁止です、の日。
空港も港も閉鎖、ツーリストも例外ではない。
火の使用も電気も基本的には駄目なのだけれど、日没までは控え目にならばまぁいいでしょうという緩さはある。
だから朝のうちにその日の食事の用意を全部済ませてしまうわけ。
うちは夕べのうちから仕込んでいた大鍋一杯のカレーとお菓子類、KL.で買って来たウイスキーなどで万全。

静かです、とても。
明るくて透明で静か。
ガルンガンは視覚的に綺麗な日、けれどニュピは視覚以外の感覚で、綺麗で美しいなと感じる日。
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普段常に聞こえている中低音から下の域の音や振動。
エンジンや機械、モーターの駆動音、走行音、そういった帯域がヌケていると凄く違う。
あれは身体や頭に重たいものなのだな、ということがわかる。
だからなにか軽い。
自然音は静けさを破らない。
中高域の、風と植物の擦れ合う音や鳥のさえずりが耳の奥の方をくすぐる。
やはり普段は低域の振動で皮膚感が鈍っているのだろうか、、今日は皮膚で感じる音々がたくさんある。

軽いので実は朝から、普段やらないような場所の掃除をあちこちしていた。
気が済むまでやって、水浴びして、さて缶ビールを開けたらならもっと軽くなるかな、、
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ところでうちの村、言ってみればただの田舎の村なので昼間のうちは規制も緩い。
だから町中では許されないらしいけれど、ここでは夕方の2時間くらいはみんな道に出て散歩したりしている。
ワルンの裏口でお菓子買ったり。
朝から暇で仕方なかったろう子供達がみんな道に出て来ている。
小さい子たちは思い切り自転車の練習したり、走り回ったり、道の真ん中に寝転がったり座り込んだり。
息子もなんだか近所の友だちたちと道でごろごろしてる。
でも今日ばかりはなにしても安心、車もバイクも絶対通らないからね。
けれど透明な夕方の空気に子供達がだんだん溶けてゆくと、ふと、このままもう帰ってこなくなってしまうのではないだろうかと、、そういう不安を感じてしまった。
だって逢う魔が時、それも特別な日の、、。

そろそろ本当の日没にローソクの準備。
AQUAのペットボトルを輪切りにして、新聞紙で腰巻きをつける。
これを被せてやると光が拡散せずに丁度いい明るさになるんだよ、で、台所のガラス.ブロックやら光の漏れそうなとこに目貼りして。
さすがにこの村でも灯火に関しては厳しいので。
そうこうしているうちに息子も帰宅して、やはりなにかちょっとほっとして。
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静かで明るく透明だった一日が闇に、本来の闇に戻る、、そういうニュピもあったけれど、今晩は星の多い、ほんのりと明るい晩でした。
家族はもうとうに眠りについて、だからトイレのローソクを残してあとは消してしまい、カリンバの音をちいさく散らした星空とウイスキーを呑みました。
屋根のない中庭の台所で。

* NYEPI明け。
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ニュピが明けて2日目の今日は、町はいつも通りの町。
クニンガンまでちょっとひと休み、でもお祭りはまだ続いているようで、道々には子供たちのバロンが出だしています。
子供バロンは大抵がこの豚のバロン。蛙の従者もついていて、ブレガンジョールもバロン.ダンスもなかなか達者、と吾が村贔屓も出ようというもの。

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Ubud百景 = 其の十三景 / お祭りの島。

さて、KL.からBali島Ubud村に戻ってみれば、、
そろそろみんなそわそわし始めている。
大きなお祭りが近い。
Bali暦の新年が近い。

Baliはウク暦とサカ暦というサイクルの異なる2種類の暦が運行している。
祭、祀り、奉り、そういう「こと」はどちらかの暦に属しているわけで、だから西暦上では「こと」あるごとにどんどんずれてゆく、毎回違う日付けになる。

で、今年はBaliいちの華やかなお祭りガルンガンというのと新年のニュピというのが繋がった。
ガルンガン最終日の3日目がニュピ前夜と重なった。
で、ガルンガンの10日後にはクニンガンというお祭りもあるので向こう2週間はずっとお祭りムード。

* 3/8 Penampahan Galungan
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お祭りにはお金だってかかる、そういう金策だって必要だ、村の共同体の仕事だって増える、学校はずっとお休み、、島中がそわそわしている。
そういう空気が加速してきて、ガルンガン前日は朝早くから男たちのお祭り料理を作る音や、飾り付けを作る音やらで賑やか、寝惚けたあたまで、あぁ、ガルンガンかぁ、、と目覚めたり。
今回はニュピ用の手製爆竹の試験爆破の音も加わって。
これは市販のやつバラして、火薬を集めて強力な1発を作るわけで、ぼくもガキの時分によくやった。
竹筒の大砲タイプなども登場して、まさに爆竹、字の如し。
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村のお寺だけではなく、個人個人の家だって、家寺、社、祠はもちろん、竹で組んで道に出すお供え台も本当に綺麗に飾り付けられている。
なにしろ祖先の霊が帰って来て留まる日だからね、そして10日後にあるクニンガンというお祭りでまた送り返す。ね、日本で言えばお盆だね。
各戸の門の右側にはペンジョールと呼ばれる10メートル以上はありそうな飾り付けた竹竿が垂れ下がる。
ぼくはこれがだいすきで、一本道の彼方を遠目に眺めやるとまるでアーケードのよう、それをくぐるような気持ちでバイクを走らせる。
村も町もお寺も、Bali中が綺麗に飾り付けられて、絵葉書の中の世界に本当になってゆく。
遠い異国へと運ばれる、切り取られたホンの一瞬間の風景のなかへ。

* 3/9 Galungan
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Baliが最もハレのBaliらしく綺麗な日。普段のなんでもないBaliも良いものだけれど、おめかししたハレの空気が気持ち良い。
地域(お寺)限定ではなく、もう島中がなにかに被われている感じ、遠い宇宙からみたらこの島がひとつの巨大な寺院に見えるのかも知れないなと思う。
そのなかは愚も徳もすべてが渦巻いている、ここも宇宙。
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これはお祭りにつきものの、男たちの最大の楽しみ、、闘鶏。
カメラを持ってノコノコ入ってゆくのもどうかと思ったのだけれど、そこはそれ、一応自分もここの村人なので、、
けれど、お祭り以外で闘鶏を立てるのは御法度なので、そういうときのカメラは駄目かも知れない。

ちょうど試合の始まったところで、黒いのが一瞬で白を組み伏せた。
そのまま尻餅をついた格好の白が立ち上がると、胸をざっくりと縦一文字に切り裂かれていた。
このあと白が倒れて勝負がつくのだけれど、蹴爪に装着したナイフがいつ翻ったのか、早くて見えなかった、、
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そしてこれは脇にあった選手控え室、選手は籠の中。
大きな闘鶏が立つときは島中、国中、更に外国からもプロの闘鶏師がやって来るらしい。
最前列のメインの賭場(外野は外野で小さな賭場になる)では、時に一瞬で土地も家も失う迫真の勝負が動いているという、だから物凄い熱気。

村はずれに立った闘鶏場は、でも遠目に眺める方が風景としてすきだ。

* 3/10 Manis Galungan / Nyepi前日
ガルンガン最終日に大晦日が重なった、という感じで、本来ならば Manis Galunganはおめかしして親族友人の家を訪ねあったりの賑やかな日なのだけれど、Nyepi前日にやることもたくさんあるので忙しそう。
この日のハイライトはなんといっても、各村(バンジャール)ごとに毎回作るオゴオゴという魔物をかたちどった巨大な張り子人形。
これが町を練り歩き、夜には各村々からやってきたオゴオゴたちが大きな広場に集結する。
その過程で道でかちあったオゴオゴ同士がバンジャールの面子をかけて喧嘩になったりもする。
もう練り歩く、というか走る感じでね、小さい路地からいきなり飛び出してきたりで、かなり危ない。
担ぐ若者たちはもうイっちゃってるしね。

というオゴオゴなので、ずうっと村外にでるのは禁止されてた時期もあり、いまもその年の社会状況によってOKだったりNGだったりしてる。
で、今年はNG、、
ガソリンの大幅値上げ、それに伴う物価高騰でこの国各地でデモが行われている、とかそういう理由らしい。
なので、うちの村もブレガンジョールという歩きながら奏でるガムランと共に村内だけを練り歩いた。
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さて暗くなってくると、空き缶でもなんでも音の出るものを叩きながら家の敷地の隅々まで、隠れている魔物を追い立てる。
道では花火や爆竹。
こうやって脅かして魔物を追い払う夜なのだ。
その前にオゴオゴとして魔物達に派手なパフォーマンスをさせるところはいかにもBaliらしい。

爆竹は遅くまでひっきりなしに鳴っている。
中華系の派手な連発式ではなく、強力なのを断続的に鳴らす。
車やバイクの通過のタイミングに合わせてわざと投げたりするから、慣れないと胆を冷やす。
たまに上から降って来たりもするので油断できない。
でも広場に集結する年なんかはやっぱり観に行きたいしね、UbudはMonkeyForest通りのサッカー.グラウンド、家からバイクで10分くらいだから結構冒険。

近所のワルンで花火をたくさん買って来た息子は大喜び、しかもそろそろ爆竹にも興味津々。
やれやれ、、と思う。自分もコドモの頃はそういうもの大好きだったのだ。

0時頃は最後の勢いの爆竹があちこちでひとしきり鳴って、次第に遠く近く間断に。
1時過ぎには時々思い出したように遠くで聞こえるだけ。
夜中遠くで鳴る音、聞こえる音は寂しい寂しい夜の音。
爆竹も寂しい夜の音だ。

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Ubud百景=其の十二景(続マレィ特別編/クアラ.ルンプル)

ときトラ日記でたっぷり書いたのだけれど、今回のKL.はなにか結構深みにハマってしまった感じでもう少しこの世界に触れたいなと思って。
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世界に触れる、、これは歩くこともそうだし、見る聞く感じるそういうことのおよそ凡てのこと、皮膚、粘膜やらの身体の器官ぜんぶが使われて、ということと思っていた。
ところが「書くこと」でさらに触れることが出来る、という感覚を知った。
そのことで完結させる、ということではなくて、さらに入り込む感覚。
絵描きが、描くこと、その表現によって世界に触れてゆくことと近いのだろうか、ならば音楽家は、、と考えてゆくとなにかありそうだし、そのことをでは書くことでもう少し、、と思ったけれど、いずれまた。
必ずやループが待っているだろうし、いまはまだちょっと。

KL.は面白い。
アソートの、でも仕切りのあるお菓子箱みたいな街、と思ったけれど、お菓子の隣は必ずしもお菓子ではなかったり。
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多種の異文化が住み分けされている何処にでもぼくは入ってゆける、旅行者としてね。
入ってこられる側から見たら、実体のない幽霊みたいなものだし、自分もそういうスタンスにすっかり馴れてしまった。
異文化同士は融合していないので、KL.全体が掴みどころのない、、っていうのはない、クリアな印象のある街だと思う。
異文化が融合するとき、真っ先に切り捨てられるだろう古い古い建物は、でもそれがなされなかったので、廃虚に近くなってもその場所に頑固に残存していられるのかも知れない。
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色んな国をさっさっと瞬時行き来できる、目線の動かし方ひとつで。
チャイナタウンでうろうろ、ふと目線を空に向けると近代的な高層建築が空に突き出している。でもそのデザインはどこかイスラミック、、
インド人街でふと目線をあげるとでこぼこした古い建物の向こう側にアラビアン.ナイトみたいなモスクの丸屋根が顔を出してる、とか。
椰子の樹にハイウェイ、赤や漢字、泥の河に真っ白い宮殿、読めないアラビック文字、オランダ式表示のアルファベット、綺麗な線のシンメトリーに欠けたがたがたの線、強い日射しに晒された白っぽい廃虚とその影の濃さ、山のような贋物時計と熟れた果実が、、

KL.を歩く。
カキ.リマを辿って歩くのがすきだ。
一軒分ごとに曲線で切り取ったような仕切りのあるアーケード、ある程度の広さの道路ならば大抵両側にある歩道のことをカキ.リマと呼ぶ。
KL.を巨大な宮殿に喩えるならば、これはそれを巡る回廊。
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チャイナタウンのカキ.リマは日中はがらんとして、強い日射しから静かに隠れている
お茶や中国香の匂い、、こころ穏やかに歩ける。
けれどそのうちぼくの粘膜はスパイシーな匂いに粟立ち、サフラン色に染まりそうになっていた網膜はでもカラフルな色で埋まってゆく。
インド人街にさしかかって、ぼくの心臓もざわざわしてきて、その感じがすきだ。
色鮮やかで派手な生地のインド服がすぐに目につくけれど、ちょっと目線を外すとコットンのナチュラルな風合いで刺繍模様の入ったいい服がある。
こっちはインディアン.ムスリム服。

音が煩い。
色も匂いもさらに増えて、生地屋服屋靴屋、中も外もごちゃごちゃのスーパーマーケットや、あちこちの店からアラビック.ポップスが割れた大音量で流れ出してくる。
ムスリム.フーズの食堂前で立ち止まる。
仕方なく自分のMDプレイヤーのヘッドフォーンを外す。

細野晴臣の随分昔のアルバム「はらいそ」を聴いていた。まぁ、ちょっと狙った感じではあったけれど、やはり良く合う音で良い機嫌。
この頃のこのひとの音楽を夢中になって聴いていなければ、もしかしたらいま自分はこういう音楽に行っていなかったかも知れないな、なんてちらと思ったり。
それにJimHallの自分ベスト、これはいつも旅には。
そして不思議にぴったりきたのがGODLEY&CREMEの「 L 」
これと「Conseqences」のダイジェスト版を持ってきたのだけれど、ふるーいやつだしね、音知ってる人はきっと、なんで?ってなるかも、けれどちゃんと理由があって、でも長くなるからやめよう。
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とまれ、ここはアラブ人街。
カキ.リマには音も商品も溢れ出しているのに、この暑い時間帯はそんなにひともいない。
安価な靴やサンダルの溢れるお店で急に欲しくなって、ぺらぺらの黒い合成皮革のアラブっぽいサンダルを買った、400円くらい。
半年前に較べると、モノの物価が全体的に20〜30円ぶんくらい上がっている。石油のせいではないかと思う。
この辺のスーパーマーケットをひやかすのもすきなことだけれど、今回はその先のチョウキット.マーケットというエリアに初めて入っていった。
いろんな街を通り抜けて、やっともともとのマレィを感じるような気がした。
広大な青空マーケット、とは云え空が見えるわけではなく、養生シートで屋根をつけた簡易店鋪や屋台がぎっしりくっついて建っているので、薄暗い通路をゆく。
ときどきシートの隙間から青空が見える。
いろいろな強い匂い、香辛料の匂い。
食料品が圧倒的に多い。
インドネシアでパサールと呼ばれる市場にごく近い感じがする、匂いもそっくりだ。
だからマレィ、、と感じたのだろうと思う、インドネシア文化のルーツの国、、。
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週末の夜はアラブ人街もインド人街も、チャイナタウンも青ざめるほどの賑わいらしい。
そういうタイミングが訪れないのだけれど、とても興味深い、行ってみたい。

毎晩チャイナタウンでなにか食べる。
旧正月は終わったばかりだけれど、なにかのお祭りらしく獅子舞が幾頭も出ていた。

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Ubud百景 = 其の十一景 / 島の雨季 3。

11-1「雨期」「雨季」どっちも間違ってはいないのだろうけれど、ぼくの住んでいる島はでも、どちらの使い方が正しいのだろうかと思った。
ガイドブックはじめ、関連本の表記は「雨期/乾期」だし、ぼくも「期」を使っていたのだけれど、ふたつしかないとはいえ季節、なわけで、そういう話のときに「期」はいかにもそぐわない感じがしていた。
雨の期間、乾いた時期、、趣き味がちょっとなぁ、、。
言葉として乾きすぎ、とか、データっぽいし、見た目。
なので意識的に「季」にかえてみたら、やはり潤おう文章が、と自分では感じる。

つまり住んでいる側にしてみればこれはどうしたって「季」だ。
で、外から見たらこれはやはり「期」でも別にいいです。

、、まぁイイか。
あぁ、話途中で逃げる諦める、など最近しがち。

しかし雨季明け、とはまだまだいかないけれど、シリーズ3ともなると、もうそろそろ雨季は終盤にさしかかり、、
11-2
このところの一週間、確かに確実に大気空気が違う。
大気は目に見えて、空気は肌触り、皮膚感で。
はっきりと湿気が抜けてきている。
もちろん雨季らしいびしょびしょした日常の合間に垣間見える程度のハナシだけど、わかる。
11-3
いまだ降り出すとかなり凄いのが降る。
雨粒ひとつひとつが凄い大粒、重量感がある。
傘は役に立たないからささないけれど、さしたら重みで腕がぷるぷるしそう、そういう振動とか音やなんかで手や頭が痺れてくる。
雨合羽でバイク、、運が悪いとこのタイミング、皮膚の出ている部分が痛い、とくに顔が。
小さな水の妖精の怒濤の張り手、パンチを顔に浴び続ける感じ。
とにかく痛くて目も開けてられないけれど、危ないからそれでも無理矢理開けると大量の水が目に流れ込んで来てこれまた見えない。
呼吸も口も水の味。
11-4
耐え切れず軒先を借りて様子を見るけれど、濁流に変わってしまった道はどんどん激しくなってゆくし、そうするとたとえ止んでもあちこちに巨大で深い水溜まりが出現してしまう。
これが厄介でね、バイクでも車でも。
キャブレターに水が入ってエンストするとアウトだしね、こんなのが夜だとほとほと心細い。
夜目だと迂回しにくいし、浅そうなところの見当もつけづらいし。
やはりいい加減なところで出ないとそれはそれでコワイので、激雨中の走行になってしまう。

遠くで雷鳴。
頭の真上を通り過ぎて、これ書いてるいまも雷雨になってしまった。
慌てて部屋に飛び込んでくる猫。
身体を拭いてあげると喜ぶやつ、迷惑そうなやつといろいろで、帰りそびれたのが一匹。
こいつはいつもそうで、やがて泥足の大威張りで帰ってくる。
11-5
11-6
稲妻が一瞬見せてくれた。
空はワヤン.クリッ(影絵芝居)の巨大な一幕になる。
島の雨季、いよいよ最後のピーク。
大荒れの日もきっとまだある、そして稲妻みたいに嵐みたいに遠ざかってゆく。

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Ubud百景=其の十景、、島の雨季/2。

果物が旨い、突然ですが。
色んな美味しい果物が樹で熟れる、で、それを見たり食べたりする。
雨の恵みに違いない。
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雨に叩かれ風になぶられ熱帯の植物は、それでも猛々しいほどに生い茂る、油断すると庭はすぐにジャングル然としてしまう。
これもまた恵みには違いない。

蠅や蚊の大量発生、とか食中毒、、自然当然の生の営みではあるんだけどね、それを恵みと考えるかどうかは、人間の都合を外してしまわないとちと苦しい。
蠅は果物の熟れる頃合と同時進行で、蚊は庭にそういう恵みがあればあるほどだし。
ものの腐敗も生の理、か。
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家の構造が外に向かって開いている、せっかくこっちに住むんだからそうありたい、と思う。
まぁ意識的にせずとも、もともとこっちのお家はその半分くらいは外、部屋より広く取ったベランダとか「バレ」と呼ばれる東屋とか、そういうのが普通。
ところで、雨が激しいほどこういう場所にいるがすきだ。
屋根はあって濡れないけれど外に向かってたくさん開放されている場所。
激しく翻る分厚い雨のカーテンに触れられそうなほどのね。

それともワルン、、長い木のベンチ、道に向かって座っているとまるで水の底。
辛うじてある空気でこっそり一息ついている。
豆菓子とBali珈琲の、そんなささやかな水中惑星で、滝壷の裏側にある秘密の窪みの夢を見てる。

PlanetBambooの練習スタジオは庭に向かっておおきく開いている民家の一室。
激しい雷雨吹き降りのときだってあるから、音もほとんど消されちゃうけれど、水の底のささやかな空間でこれまたささやかな小さな小さなバンドが練習している、そんな感じの雨季のリハーサル。

そういうスペースのいちばん小さなものがゴム引きの完全防水の雨合羽のなかかも知れないね。
その中にはいって、世界じゅうで雨の降っていない場所は此処だけなんだ、なんて寂しい気持ちや孤独感を胸の中で転がしてみる。
uki-03
雨が身近、これは言葉の上だけでなく、実際に皮膚に触れる、皮膚感覚としての身近さ。
なので乾いた服の贅沢さや幸福感もね、、
雨や我が身から放出された湿度水分で滴る程の衣服脱ぎ捨てるとき。
衣服を乾燥させてくれる大気は少ない頃、だからこその有り難い恵み。

ところでうちの庭は水が溜りやすい、ざあっと来るとすぐ池になる。
それを眺めるのがすきなので、それはそれでいいのだけれど、うっかりすると脱いだまんまにしておいたゴム草履が流れて行く、昔から庭に置いてある南瓜のかたちの陶器の壷も漂い出す。
見ていると、南の方角にゆっくりとした流れになっているらしい。
ではそっちの方に土地が僅かに傾斜しているのかと思うのだけれど、水が引いてみると南瓜も草履もほぼ同じ位置に戻って来ているという不思議なことが起こる。
uki-04
雨季に入って本格的に雨が降り始めるいま頃だけの、ホンの短い生の風景。
蜉蝣のような羽蟻のような、そういうえばなんなのだろう、こいつらの正体は、、
「ドゥダル」と呼ばれている虫でこの通り、灯りの許に群がり飛んでくる。
家の中だってレストランの中だって吹雪きの如くなってしまう、だからこれが飛来する7時くらいから1時間は灯りは点けない。
大きな街灯は壮観でね、7〜8mのドゥダルの白い柱が立つ。
uki-05
4枚羽のなかなか良い形をしていてさ、広げると7〜8cmくらい。
地面に降りるとそのうち羽がはずれて、本体は何故か縦一列に並んで何処かへ去ってゆく。
まぁ、その前に蛙やイモリがやって来て乱れ食いされちゃうんだけれど。
ひとにだって昔はこれも貴重なタンパク源、田舎の方ではまだ普通に食べてる、ココナツ油でからっと揚げてね。
そういう田舎の音楽仲間の家でトゥアック(椰子酒)飲んでいたら、そこのお母さんがお皿に山盛りのこれ出してくれた。
見た目はちょっとアレだけど、いい加減酔っぱらっていたし、彼らの手前もあるってことで、えいやっと食べてみたら、、なにかの木の実、ナッツの風味で美味しかった。

さて島の雨季、中旬に入りました。

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Ubud百景=其の九景、、島の雨季。

お昼ご飯を家で食べていたら電話が鳴って、家が遠いので普段そんなにお会い出来ない方から。
今日は用事があってUbudに来ているのでお茶でも飲みましょ、と。

ところでこの2〜3日はもう日中でもかなりの吹き降りで、雨季もいよいよ本格化。
でもね、バイクしかないからって家に居てばかりでは仕方ないし、雨季だって毎日用事はあるわけでね。
今日もまた怪しい空模様、雨合羽を家族分持ってみんなでお出かけ。
足許はゴム草履、すぐに膝まで捲りあげられるズボン、雨季の装い、でもまぁなるべくセンス良くは心掛けたいぜ。
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今回の写真はその時撮ったもの。
ちょっとお茶でも、、が、偶然他の知人が来たり、その流れでライブやら年末のイベントの話なんかがついつい決まったり進んだりしてしまい、夕方からはちょこっとお酒になったりで、結局は夜の結構な時間まで同じお店に居てしまった。

田圃に向かってオープン.エアのお座敷席にいたのだけれど、田圃も空もなにか丁度良い大きさ広さでね。
写真に撮りやすそうなサイズ、目の寛げるサイズ。
絶景もいいけれど、それはまたきっと違う場面かな、いまはいらないと言うか。
空とか空気とか風とか雲とかが刻々と、激しい吹き降りに向かって怪しく変化してゆくのが皮膚感覚でもじわじわわかる、そういうヌケのいい場所で寛いで過ごしたんだ。
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そうこうしているうちに、どんどん空ははっきりと不穏な様子になってきた。
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あの雲が崩壊するのはもうほとんど間違いなさそう。
そういう予感に怯えるちいさきものたち、かな?
でも植物はどんなに可憐なものでも強さはしっかり秘めている熱帯育ち、勇気全開で激しい吹き降りを待ち受けるの姿、、ぱちぱち。
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目の前の田圃の水面にぽつりときた、最初の雨の一滴の輪、見つけたのは誰?
息子が「雨だ!」と言ったのは、でも水すまし、さっきの話だったね。
くるくると旋回するお線香の煙、雨だってお供えものは欠かしません。
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最初のぽつりからここまでは一気。
今日は風が強いけれど雷雨にはならなかった、、だって「雷気」は感じなかったしね、風はお線香の煙でわかったけどね、などと通ぶったこと言うのも熱帯の楽しみ。
でもここから眺める雷雨も良さそうだな、うまくそういうときにあたりたいな。
雨季には雨季の楽しみ、思わぬ場面で味わえたならば喜びも大きい、そのうちそんなことどもも書いておきたいなと思う。

夜になって雨は上がったけれど、きっとあちこち道が洪水になってるだろうな。
何カ所かいつもそうなるポイントがあるので、それを避けつつ帰宅。
まだ水量は大したことないな、けれどうっかり見知らぬ水溜りや流れに突っ込むととんでもなく深いこともある。
ともかくも、島の雨季、始まっています。

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Ubud百景=其の八景、、夕方の島/2。

また夕方の話になってしまう、、何故だろうと考えてみたら、その時間に写真を撮るのがすきっていうのがあった。
フラッシュを使うのは苦手だから夜はあんまり撮らないし、真昼だって悪くはないけれど陽射しが強すぎることが多くて、これも上手く撮れないんだよね。
専門家ではないからさ、早朝を狙って〜なんていうこともないし。
で、夕方。
ものの輪郭もひとときははっきりするし、憂いを含んだ曖昧な甘い空気も一緒に撮れる。
そういう光の加減が丁度良いのかも知れないね、素人でもなんとなくいい感じに撮れる。
うん、何というか素人の限界を少しだけ拡げてもらえる時間帯と言うか。
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あぁ、明日からもう11月なんだね、、日本はもうずいぶん寒くなって来ているのだろうね。
去年の今頃はSonicBambooやKoh-Taoとのツアーでぼくも東京にいたんだな、、
こっちはね、少し前に雨季に入ったんだよ、でも雨はもう少し先、いまは日ごとに気温湿度がじりじりと上昇を続けている。
夕べは暑くて暑くてとても眠れやしない熱帯夜、朝起きたら寝巻きがわりのTシャツが足許に丸まっていた。
今日もとても良いお天気、、でもね、その晴天の青空のみえない向こう側にたっぷりの水の気配隠してる。
そう、きっともうすぐ、それがひっくり返って降ってくる。
気温湿度のピークを迎えて空がぐるんとひっくり返る、空の向こうに溜めに溜めた雨水が一気に降ってくる。
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雨季と乾季のふたつだけの季節、けれどそれぞれの入口、真最中、終わり頃、とすこしづつ違う、だからそれぞれの夕方だってすこしづつ違う。
まぁ、それでもさ「気持ち」と言うか、それくらいのとこで。
だって厳密に言ったら、いや言わなくてもいいけれど、おんなじ夕方は一日たりともないわけだから。
ところでこの木製の門、いいでしょ。
こういう門ばかり売っているアンティークショップで大家さんが買って来て備え付けた。
残念ながら我が家の門ではなくてお隣なんだけどね。
それまで得に気にもしていなかったのだけれど、ある日夕方の光のなかでみたらなんだかとっても良くってさ。
空中に踊る金色の粉、ゆっくり蜂蜜色に蕩けてく空気にとても似合っていたし、そう、なんだか息をしているようなね。
そうか、古いもの、旧いものたちがひととき蘇る魔法の時間帯なのかも知れないな、夕方は、、ってさ。
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ぼくの古いバイク、1973年型のCB100も真昼の陽射しのなかでは辛そうだけれど、こんな夕方の空気の中では旧い旧い溜め息をほっとついている。
こういう時間に毎日少しだけ走らせてやればいいのかな、なんて思う、ホントはね、、
でもお昼に終わる幼稚園のお迎えやらなんやらあるしね、実際はそうもいかないし、ハンドル掴んでタンクにちょこんと乗っかって、上手にふたり乗りをこなしてる息子も頑張ってる、いや楽しんでる、か。
だからまだまだ、もう少し、頑張っておくれ。

熱帯の暑い暑い真昼は熱、陽射しで張りつめた状態なんだろうか、そして夕方にはそれも弛んできて、いろんなものたちが、ひとだって、ほっと息をついているのかも知れないね。
庭の草木に水を遣るのだって、真昼はいけない、夕方になってからにしなさいと大家さん家のじいちゃんに言われたものだった。
熱帯の夕方の大気はそういうほうっとついた息で満ちている。
雨季の植物たちの濃い溜め息で出来ている、いま頃の夕方は。
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今日は今日限りのもの、もう2度と来ないのだよ、と最後の陽の光であとすこしだけ見せてくれたものたち。
夕方の光はいろんなもの見せてくれる。
夕方は綺麗だな。
もちろん夜だって「今日」のうち、なのに何故か夕方は「あぁ、今日も終わりか、、」なんて憂い顔の空気。
何故だろう?
夜の時間は一日についてくるオマケの時間。
今日の一日から解放される時間、それなりの歳であればそれを伸ばすのも縮めることもできる、自在で自由な時間。
だからかな、昼間の時間が夜にまで延長してくると、自由が自在でなくなって、それはそれで苦しいときもあるね。
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落日、これはとても響きのいい言葉だなと思う、でも海岸だったらさ「入り日」なんていうのが似合うな。
本当は「入り陽」としたかった、でも辞書にはなかったね。
これは島南部の何処かのビーチ、、実は2年前のもの、友人の息子jessyと我が息子。
海岸で迎える夕方も素敵なものだ、散歩したり、サッカーしたり、座り込んだり、屋台でなにか食べたり、それぞれ気ままのてんでばらばらのひとたちも夕闇色のシルエットになってゆく、犬も空も海も砂浜も。
夜に向かって段々に、闇色一色にみんな染まってゆく。

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Ubud百景=其の七景、、夕方の島。

昼と夜との橋渡しの時間。
夕方っていうのは曖昧だ。
夕方はグラデーションの作業中、いつでも(あぁ、でも夜明け〜早朝〜朝、とか、真昼と昼下がり、夜だって早晩が深まって深夜になるけれど)
しかもほとんどの人が毎日その現場に立ち会っている、色んな場所で。
なのに気づかれにくいと言うか、気づいた時が夕方なのだろうなと思う。
故、ひとそれぞれの「あぁ、もう夕方かぁ、、」とか「いま、夕方」があるのかも知れないね。
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ところで「逢う魔が時」、、おうまがとき。
そういう言い方もある、魔に出会ってしまいやすい時間。
なんと素敵に曖昧な言の葉よ、、
幼児が理由もなく泣き出す頃でもある、、「夕方泣き」って言うんだよ。
おとなにはもう見えなくなってしまったものでも、まだ彼らは見ること、感じることができる年齢だからね「魔」にだって出逢うこともあるだろう。

目に見えるものも曖昧だ、昼間よりもものの輪郭は最後の陽の光を集めてくっきり見えるけれど、それ以外は薄ぼんやりと、だんだん夜に向かって「今日の昼間だったひかり」とともに溶けていくよ。
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天気の良かった日の夕方の味わいに気づいたのは、でもこっちに住んでから。
開け放った窓から庭、それも空気も含めた全体を味わう。
僅かに僅かに、空気に金色の粉が混じってくる、、
それが少しづつ増えてきて、やがて熱帯のとろけるような蜂蜜色の夕方になってゆく。
雨期と乾期しかない島、けれどそれぞれの始まり頃、とか真最中、終わり頃なんていう僅かな違いも感じられるようになった。
そしてそれぞれの夕方の味わいも、、乾期はさらさらした、雨期はとろりとした蜂蜜。
そのとろりとした蜂蜜色に燃えるこの島の夕暮れを遥か空の高みから見てみたい。
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真昼は熱さでしんとしている、あんまり人気のないこの村の道だけれど、夕方になると家々からひとが出て来る、いろんな屋台もやってきて賑やかな夜へ向かうひととき。
子供たちも宵っ張りだし、お祭りがあればなおさらだね。
道、そう往来に、道端に、座れる所がすぐに見つかる。
夕方からそうやって集う文化がある、そういうポイントポイントにちゃんと屋台がやって来て、さらにちょこっと賑わったり。
日本はそういう往来に座り込む文化はないでしょ、そういうコミュニケーションは日本では道ではないもんね。
あぁ、けど昨今の日本の若者のそういう往来の何処にでも座り込んでいるアレっていうのは、遮断でありながら、でも世界とも繋がっていたいという甘えた気持ちなわけだから、是非とも、文化とかそういう土俵に乗せないで欲しいなと。
文化になりえない単なる通過点。
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夕方はどうしても昔の記憶と結び付く。
子供の頃の不思議な夕方の記憶とか、泣きたいような夕暮れの空気や色。
そろそろ灯の入る頃の商店街はもうすぐほんとうに賑やかになる、住宅地の道や路地に夕餉の匂いが流れる。
テレビやラジオの音、ひとの暮らしの匂いが溢れる愛しい時間。
それはこっちでも、そして何処に居ても、時を越えてさえきっと一緒。

これ書いているいま、丁度そういう時間なのです。
音楽が気分をすごく左右する時間でもあるね。
さっきまでコルトレーンの「至上の愛」だったのが、ふとニルソンにしてみたら、やっぱり'without you'のいろんな'you'が沁みて来ちゃった。
ところでそんな時間に先日、BBSにこんなこと書いていた。
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『いやホントに久し振りの、、夕方独りでお酒をちょこっと飲んだなんてのは。
Ubudに限らず村の味わいは夕方にあるのだけれど、それにライス.ワインのほろりが加わって、えも言われぬ時間味わっていた。
これが完全に陽が落ちていたならば、それはそれで、ゆるゆると夜の時間が流れはじめるあの独特の開放感があるのだけれど、陽の名残りがまだたっぷり残っているこの時間はまた格別。
なんだろね、昼と夜の橋渡しのその橋が、ゆらゆらと曖昧になってゆく。』

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Ubud百景=其の六景

さて、前回前々回はマレィ特別編、う〜ん、そのうちBangkokもやりたいな。
で、暫くは通常のUbud百景ですよ。
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この前はMonkeyForestの裏口付近まで、、ここはお寺をいちばん奥に抱き、森全体がお寺と言えるのだけれど(そういう感じで、海岸まるごとがお寺、なんていうところもある)その敷地をぐるっと迂回するような細い道がある。
バイク擦れ違いがぎりぎり、ポイントによっちゃ片方は停まって待たないとちょいとコワイ、そういう細い道、片側は谷に向かって崖だし急勾配の橋もある。
でもこれ使うとダイレクトにUbudの中心に出られる便利道、昼間はね。
夜は真っ暗だしところどころ割れていたり剥がれていたり、up/downの多い荒っぽい石畳、けれど時々独り、バイクで真夜中この道使ってみたくなる。
垂れ下がった蔦が顔をするりと撫でて、ひやっとしたりね。
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ところでその崖の向こうにこんなのがにょきにょきいる。
なにかの樹に蔦がみっしり捲きついて、窒息して、お化けになっちゃった。
夕暮れ時に見るとどきりとするいちばんおっきいやつは15mくらいあるよ、きっと。
後ろの孤高の椰子の樹は20m越してるだろな、不思議と椰子の樹って群生してるとみんなそこそこの高さで平均してるのに、一本だけのやつって時々凄い高いのがいる。
空の高い高いところで青空をバックに、他には何も見えない、ただこういう椰子の樹が一本、風に嬲られてる姿がすきだ。
目に沁みてくるのは空の眩しさだけじゃない、孤独、という感覚なんだ。
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しかしこの蔦、ホントに猛々しい。
油断してると我家にもどんどん侵入してくる、ちょっとした壁やらの隙間から室内にまで垂れ下がって来るし、捲きつけるものがあれば捲きついてしまう。
最終的に地球上の建造物がみな廃虚になった場合、蔦と水の惑星になってしまうんだろね。
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こんな蔦もある、、これは蔦の緞帳、つまり舞台なんかにある幕みたいでしょ。
丁度道がカーブするところにあって、偶然に照明(街灯)も揃ったという感じ。
この下を通過するのは車の方が気分に合う、座り方の問題かなと思う。

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Ubud百景=其の五景(マレィ特別編/マラッカ&クアラ.ルンプル)

photo/Melaka59
*セントポール寺院の廃虚に切り取られたマラッカの空。
廃虚のあちこちに空いた「穴」から見る青い空も素敵だし、ここは小高い岡の上、遥か茫洋たるマラッカ海峡を眺めながら暑さに眠くなるのも素敵だ。
そう、昔は確かにそうだったのだ、、けれどいまはすっかり不穏な海の上になってしまっているね、けれどその空気はまだニュースの上でだけ、ここに佇んでいても。
photo/m5
*左上から時計回りに、、KLの長距離バス.ステーションの大きな建物のなかのフード.コートで食べた焼豚麺ドライ、スープに入っているものも頼める、約135円。
後の缶がマレィ独特の清涼飲料水「SARSI」ムヒ(痒み止めのアレ)の味がするRootBeerってとこ、強烈です / HangJebat通りで見つけた閉まっていたお店の2階部分 / 同じくHangJebat通りの骨董品店の店先 / 雑貨や軽飲食も商う、でも本屋さん。
photo/m2
*左上から時計回りに、、マラッカの「影」ぼくのです / マラッカ川沿いには廃虚が多い。窓から樹木が飛び出している、向こう側から建物を突き抜けているのか、それとも内部に生い茂っているのか、船上から撮ったので確認出来ず、、ちょっと覗いてみたかった / マラッカの「影」これは息子の。マラッカはあんまり日陰がなくてね、しかも陽射しが強烈なのでいつでも自分の濃い影がついてまわる。そんな路上に佇んでいるとね、自分の影が道に灼きついてゆくような、そんな気がするんだよ / これも船の上からやっと見つけた旧長距離バス.ターミナル。
photo/m4
*マラッカで泊まったホテル「BABA HOUSE」のスナップ、左上から時計回りに、、夜はこの入口脇に併設されているカフェの雰囲気が凄く良かった / 細長い建物にいくつかある中庭から2階部分を望む / この中庭で眠る前に珈琲を飲んだ、脇に井戸があるんだよ / この螺旋階段は木で出来ている、、この価値わかりますか?100年以上経過している建物、そして恐くは沢山の調度品も。部屋はね、狭くてそれほどでもない、けれどやはりここは特別なところなのだ、見学だけに訪れるひともいそうだけれど、ぼくはどうしても泊まってみたかった。
photo/k1
*オールド.ステーションと呼ばれる「KualaLumpur駅」
外観はご覧の通り、真っ白な宮殿、モスクなんだよ。この部分は「HeritageStationHotel」という有名なホテル、ぼくのKLの目的はここに泊まることだった、と言ってもいいくらい。
15年前の若き日の、それも初めての独り旅の最後がここだったのだ、だからいろんな「想い」がつまってるところ。
客室のベランダはすべて続いていて、つまりは建物をぐるっと巡る回廊になっている。
内部写真はこれ、まさに駅の構内、それも待ち合い室だったのではないだろうか。
ここは今はホテルのダイニング&バーになっている。
現在のマレィは鉄道は衰退の一途、、昔の賑わいはすっかりひそんでしまったね。
photo/KL-12
*そして客室の並ぶ廊下、、木の部分がどこもぴかぴかに磨きあげられている。
この廊下で開口一番「船の中!」って息子が叫んだ、うん、横浜で氷川丸見学したからね。
このホテルも軽く100年以上が経過していてどこもかしこも旧い旧い「空気」に満ちている。
ただねBABA HOUSEと同じく、部屋はそれほどでもない。
でもね、やっぱり素晴らしいんだよね。

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Ubud百景=其の四景(マレィ特別編/マラッカ)

短かかったけれど、とても久し振りの「旅」でした。
ぼくにとってのマレィは殆どがここに収斂してゆく町、そこがMalacca/Melaka。
初めて訪れてから5年後、さらに10年後の再訪でした、今度は15年後かな、、?いや、わからないけれど。
どんな旅であったのか、もし御興味があれば「ときどきトランス日記:8/20〜27」分に記してありますのでどうぞご覧下さい。
photo/m1
*マラッカ看板コレクション。
左上から時計回りに、、珈琲やお茶、食事も出来る「茶室」の看板 / 骨董品店の並ぶHangJebat通りのアンティークショップ / 正装服の仕立て屋さん / サンダル専門店、何故かマラッカで売られているサンダルは木のサンダルばかり、鼻緒に色とりどりのビーズで刺繍してある派手なのも多かった。
View image
*カキ.リマと呼ばれる歩道、細い路地以外ならたいてい道の両脇にある、お店の軒先がずうっと道なりに繋がっているもので、雨や強烈な陽射しから逃れられる。
ただこれね、壁で仕切りしちゃってるタイプもあって、その場合は一度道に出ないと通れなかったりで、それが不思議。
でもその壁も窓が開けてあるから、向こうの方までずうっと見えるのが面白い。
この写真は繋がっているタイプね。
photo/m3
*骨董店街HangJebat通りのスナップ。
左上の写真は骨董品店の店先にあった人力車のような、大八車のようなもの、飾りのようにも見えるけれどなにか用途があるのかもしれないね、両側にこんな腕が生えていた。
sonicslow/photo/Melaka54.html" onclick="window.open('http://bunga-putih.cocolog-nifty.com/sonicslow/photo/Melaka54.html','popup','width=640,height=480,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false">photo/Melaka54
*これは件のカキ.リマの仕切りタイプ、丸窓つき。
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*ChenLock通りにあったコロニアルスタイルの家。
多分個人の邸宅ではないかと思う、ここには写っていないけれど前庭や玄関にそういう空気が感じられた。

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Ubud百景=其の三景。

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さて、うちの門のところから北へ真直ぐゆっくり10分、猿の森まで、夕方ゆっくりお散歩コース。
森の中には猿たちが護るお寺。
巨木から降って来る巨大な葉っぱはお面が作れるし、かなりの悪戯ものの猿は可愛いとは言い難いけれど、まぁ、とにかくたくさんいる。
森の裏口に駐めてあった車はご覧の通り。
むかーしね、ツーリストの頃ここに来て、足許が変だなと思ったら、履いていたラバーソウルの甲の部分のフェイクファー、蚤取り行動されてしまってすっかりむしられていた。
あとで気に入った奴にあげようと思って、ズボンのポケットに忍ばせていたバナナ、いつの間にか悪そうなやつが手を突っ込んでポケット内で握りつぶして、大惨事に、、
つまりは何百という愉快犯に囲まれにゆくわけね。
徒歩圏内にこういうところがある住環境、、でもね、あんまり近いとやつらに台所荒らされたり、いろいろ悪戯されたりで大変らしい、でもさすがにうちの方までは出ばってこないからね、絶妙の距離感とふと気付く。
photo/u-25
photo/u-26
さて、上の写真はねUbud近郊のPejengという村で見つけた、ブリキのぺなぺなの街灯。
これ以前に違うサイトで紹介したことあるんだけどさ、こっちでもどうしてもやりたかったから。
もう一枚は偶然HDから出て来た、去年のNyepi前夜(まぁ、日本で言ったら大晦日)のお祭りの風景。
これもなにかすごく良いなと思って、トーチランプの燃料の独特の匂いが目に滲みる。

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Ubud百景=其の二景。

さて今週の景は、、なんてそう、できれば週イチくらいで更新したいのだよな。
なんか我家の御近所案内みたいなことになってきちまったけれど、ま、イイでしょ、Ubudだし。
というわけで、前回は門のとこまで出て来たのでね、そこから通りに、すると、、
photo/u19ガルンガン、なわけです、世の中は。
これ、なにかと言うと、まぁ「お盆」みたいなもの。
祖先の霊が一時的に帰ってくるのね、写真のペンジョールと呼ばれる、各家庭ごとに門に据え付ける竹の飾りを目印に。
これがイイ、島じゅうの道々がぱっと「ハレ」の顔になる。
こどもたちのあやつるバロンも村々繰り出して、お寺への行き帰りやら、親類、知人の家を訪ねあったりの正装したひとの群れ、、とにかく道が賑やかだ。
そしてガルンガンが終わるとクニンガンがやってきて、霊を送り返す、、うん、これはもうお盆そのもの、か。
photo/u17 photo/u18
さて、次回はここ、門の前から歩き出すさないとね、猿森の方にいってみようかな。

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Ubud百景=其の三..

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そして竹、です。
竹は生活とは切っても切れぬ仲、ぼくもバリ人もね。
これは大家さんの竹置き場。
で、その竹と黄色い椰子の実をバックにぶら下がっているのがNANGKA(ナンカ)という果物、かなり巨大です。
英語だとジャックフルーツ。
味は、、パダン料理屋のカレー味の煮付けはなかなかイケるんだけどね、ほろほろと繊維が崩れて、ちょいと鶏肉のようなね。
生食も出来るけれど、かなり独特の甘さで好き嫌い分かれるね。
匂いも味も、内外形状、色もだね、なんと言うか、あのドリアンとも少し違うけれど「剥き出しリアルな生の熱帯」感じてしまうという。
で、実はこの樹、太鼓のボディ材には最高です、値段も張る、Baliのクンダン(太鼓)はこの樹です。
ところで、Baliで買う楽器の定番?になっているJembe、これもマホガニー製の軽いものが多いけれど、このNANGKA材のものを買うのが正解です、音が1ランク上。

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Ubud百景=其の二。

photo/u2
外にでてみましょうか。
Ubud村のなかにある「黄色い椰子の実」という意味の集落、そこがぼくの住む処。
なので、家の入口にこんなものが生えているわけ。
ところで椰子の樹、、
これは背の低い2m半くらいのもの。
けれど、10〜15m級もざら、つまりは落下物がかなり危険なわけで、ココナツによる骨折、打撲もある、死亡事故だってある。
車のフロントガラス粉砕、ルーフの陥没もよくあるハナシ。
だからその下には誰も駐車しません、やられちゃうのはガイジン、ぼくも気付かず停めてたことある。
実は家にも15m級のがあったのだけれど、子供がその周りで遊ぶようになった頃、大家さんが伐ってくれました。
見上げると青空とそいつしか見えない、クリアでひどく明るくて力強いコントラストで、上空の風の様子が目に見えるようで、でもちょっと寂しいようなその風景、気に入っていたのですが。

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Ubud百景=其の一。

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ぼくは時々、仕事でいらしているフォトグラファーの方とBaliのあちこちに出掛けることがあるのですが、
よく言われるのが「ここはホントに小ネタに困らないねぇ、、」と。
つまり、ちょこちょこ撮りたいものがある、そういうのがそこらじゅうに、ということらしい。
で「ふ〜ん、そんなものか、、」なんて思っていたのですが、デジカメが我家にやってきて、どれどれ、なんて触ってるうちに、ホントにそんなものになってゆきました。
一回そう思うと、カメラを携行してるとき、何時の間にか写真のイメージでモノ見ていたり、カメラがないときは悔しい思いしたり、ね。
でね、そういうUbudの小ネタ、ときどきお観せしましょう。

で、Ubud村、まずはそこの自宅から出発しようかなと思って、これ、うちの中庭の地面です。
屋根はなくて、そのかわりのブーゲンビリアの樹がもうごちゃごちゃに枝絡ませて生い茂ってる、の影が映ってる。
左上の真っ黒な影はセメントで作った巨大テーブルの影。
まぁ、うちのリビングダイニングキッチン、のような場所。

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