Ubud百景=その十六景 / 御近所のカミサマ。
時間はずしたお昼寝などうっかりしてしまうと夕方寒くて目が覚めるタイルのうえ。そろそろ夜は薄手のセーター着てもいいくらい。
タンクトップで過ごした昼間の肌の上にふわりと被る、剥き出しの肩や腕に薄手の毛糸地が心地よい。
ぴりっと暑い日中は、でも風涼しく爽やかで汗はかかない。だからタンク.トップが気持ち良い。
雨季の汗まみれの身体にタンク.トップは嫌なので着ない。
![]()
前回の百景が「島の雨季が明ける」だったからやはりここは「迎乾」とか「ドライシーズン.ハズ.カム」とかなのだろうか。
ともかくも乾季はぴたりと安定し、洗濯物も太鼓の皮もさらさらに乾いていて肌触りが良い。
パソコンのキィボードのタッチも心なし軽い、ってのは気分でそう言っているだけにせよ、身体と空気大気との摩擦係数が下がっているため動きやすい、、ような気がする、とでも申しましょうか。
![]()
空気とそのような関係を持ちつつ滑るように泳ぐように、端から見ればふらふらと、散歩に出れる昼日中。
しかしつくづくと、、
自分の住んでいる村をひと巡りしただけでこんなに収穫がある、つくづくとバリならでは、、と思う。
こういう豊かさってある。
子供ではない、いいオトナがこういうものを造って道端に置きたがる。
もちろんどれも神様モノではある、そういう大義名分に隠れてこっそりと楽しんでいそうでとても羨ましい。
![]()
道端の、言わば下っ端のカミサマたちのこの顔たちの御近所ぶりはどうだ、と思う。
シニカルや素っ恍けに、ただひたすらに可愛いヤツらとか。
しかし雨季のあの激しいスコールのなかでも、時には道を流れる濁流に棒立ちて、こいつらはここにいるんだよな、と思うと健気。
笠地蔵、、いや傘地蔵なんて連想する。
しかし日本のカミサマはどれも穏やかたおやか、水のように静か、悟りの入った成就した貌、若しくは憤怒の形相。それともさり気なくモノに宿っていたりとか、、
自分の育った町では少し高いところにそうやってみんな居た。
だから子供の目線の一番近くに居たカミサマはお地蔵様で、触ることも出来た道端のカミサマ。
子供にとっては、触れる(さわれる)か触れないかで大分親密度が違う。こういう感じが一緒だなと思う。
ところで自分には日本の路上観察学だのトマソンだのの「あの感覚」で開かされた目がある、自然とそれ使ったものの見方になっているのかも知れない。
もちろんこっちにはあの感覚はない、でもその目でこの感覚を捕まえているのかも知れない。いや、目に入って来た情報の処理に「あの感覚」が使われている、のか。
![]()
昔、まだ20代だった頃、ここは旨そうだなというちょっとした勘が働いて、横浜中華街の細い路地の奥にある小さな中華料理店に入った。
そうしたら、その赤瀬川源平さんが数人の連れのひとたちとご飯を食べていた。
つまり「あの感覚」を開いたそのひと。開祖、というか。
低くて良く響く声が聴こえて来て緊張した。
鞄のなかには当時の彼の新刊本もペンも入っていて、それにサインして欲しかった、サインをお願いする条件が揃っていると思った。
けれどそう思うとさらに緊張してしまい、なにか頼んで食べたのだろうけれどそれは意識の外での出来事なので味の記憶にはならなかった。
食事を終えた一行がレジのところに一時留まっていたのに「さあ、いまだ」「いくのだ勇気を出して」といよいよ身の裡で葛藤があって、、でもいけなかった。
当時の日本の、感覚の、まさに最先端にいたひとだったので、どうしても固まってしまう。
サインをねだるなんてハシタないこと、、という態度で後日友人達に自慢したのは言うまでもない。20代なぞそんなもの。
硬いしわしわの、桃の種みたいに詰まらない、ちっぽけな自我を大事に持ち歩いていた頃。
![]()
ところでこの写真は説明を要すると思う、左上と右下。
一見、男根崇拝のアレ、と思われがちだけど違います。
樹の幹を刳り抜いてスリットが入っている。
日本で言ったら、もうないかも知れないけれど半鐘みたいなもの。
火事や事件が起こると町内のこれが鳴らされる、勝手に鳴らされないように随分高いところに設置されていた鐘。
かなり小さい頃の記憶にある、それが鳴らされているときのタダナラヌ緊迫した空気。状況の緊迫度によって鳴らされ方が違う。
町内の火事では狂ったように鳴らされていたし、近くのなら早く、遠くの火事ならのんびりと鳴らされていた、、という、あれです。
こっちのこれはクルクルと呼ばれていて、やはりそのように使う。
村の青年団の緊急召集とか、そういう類いの合図もあって割と日常的にその音はしている。
なかなか良い音で、良く乾いた感じの樹のヌケのいい中高音、遠くまで良く響く。
夜中にこれが早いピッチで間断なく鳴っていると、これは村内の大事件。泥棒騒ぎなんかでね、やはり緊張する。
機械で増幅したり信号に変換〜還元したりしない生の音の、直接空気振動による情報伝達がまだ生きている。
そして警報を発するのは機械ではなくてひと、リアルだし速効性が高い、機転がきく、柔軟性も対応性もある。
それ故に得られる安心感というものも、そういえばあったんだ。
はぁ、ひととひとの会話と同じことってわけですね。


Recent Comments